大名登録刀!朱銘「了戒・本阿弥(花押)」戦国武将「大谷吉継」陣太刀の伝来品!家紋散し金蒔絵糸巻太刀拵え・鎌倉後期の名工!古刀大業物

  • 賣家不協助退貨、賠償、客訴等責任。
  • 賣家有要求時間內付款,請於得標後盡快完成付款,避免賣家取消交易。
  • 危險物品,禁止國際運送,請勿下標。
    ★如有疑問,請洽詢客服人員。★

  • 日本刀無法進口,請勿下標

  • 拍賣編號:q1209865915
  • 商品數量:1
  • 開始時間:2025.12.01 13:22
  • 結束時間:2025.12.07 18:36
  • 自動延長:有
  • 提前結束:有
  • 起標價格:1,000円
商品原始頁面
出價次數 238
剩餘時間 -3 -4 -48 詳細
目前出價
免服務費
147,760
708,000
競標結束
賣家所有商品
賣家名稱 刀剣//夢//
賣家評價 100% (+194 | -0)
消費稅
不需要
*消費稅於第二階段收取
商品所在地 栃木県
日本當地運費 買方付運費
發送方式
(依賣家寄送為主)
ゆうパック
加入最愛
關注賣家
此參考翻譯中文功能是由Google翻譯所提供,跨買不保證翻譯內容之正確性
將商品說明翻譯成中文
出品物


ご覧いただきありがとうございます。今回出品する品物は、写真の太刀です。


銃砲刀剣類登録証番号 福岡県 第11744号

種別  刀
長さ   二尺0寸一分0厘
反り    八分0厘 
目くぎ穴   1個


元幅約2.7センチ 元重約0.6センチ
先幅約1.8センチ


刀身だけの重量約450グラム



在銘 (朱銘)了戒
    本阿弥・花押


昭和26年の福岡県大名登録刀で、「大谷吉継」の陣太刀として伝来されている糸巻太刀の了戒です。

拵えは糸巻太刀拵えの家紋散しで、縁頭や鞘の太刀金具はすべて赤銅魚々子地の高級金具が使用され、
数物の魚々子地と違い、細かく繊細に作られ出来が全然違います。鍔は鉄地透かし金象嵌の太刀鍔で、
こちらも素晴らしい出来です。
鞘は、家紋散しで、石目地塗に金蒔絵の家紋です。家紋は大谷吉継の家紋で、「対い蝶家紋」です。
蝶の珍しい家紋であまり使われないですが、大谷吉継の家紋として有名です。拵えの状態ももよく、
綺麗な拵えです。飾り映え致します。

刀身は、鎌倉時代後期の名工で「了戒」の太刀です。来国俊の子で、古刀大業物として有名です。
上研ぎ済みですので、とても綺麗で錆や刃こぼれやハギレはありません。
板目肌に直刃紋で、大磨り上げの朱銘になっています。地金も綺麗で、さすが上古刀だと思います。
元々は、昭和15年に本阿弥光遜の鑑定もあったそうですが、現在は紛失の為にないです。
了戒は、旧国宝や重要文化財や重要美術品に指定されている太刀や刀が多くあり、古刀の中でも最上位
クラスの名工です。伝説の戦国武将「大谷吉継」の陣太刀ですので、是非コレクションにいいと思います。


大谷吉継は1565年(永禄8)年の生まれ。
母親は豊臣秀吉の妻(お祢、高台院)の侍女で、東殿ひがしどのと呼ばれた女性。父親は判明してい
ません。
幼少期から、秀吉のもとで石田三成、加藤清正らと競い合いながら成長したといわれます。
本能寺の変ののち、秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。15
85年(天正13)、秀吉は関白になり、吉継も刑部少輔ぎょうぶのしょうゆうに任じられます。『大谷
刑部おおたにぎょうぶ』という呼び名はこれに由来します。

大谷吉継
おおたによしつぐ
一五五九 - 一六〇〇
安土桃山時代の武将。永禄二年(一五五九)に生まれる。父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であ
るといわれている。はじめ紀之介と称し、のち吉継と改めた。豊臣秀吉に近侍して信任を受け、天正十
三年(一五八五)七月、従五位下刑部少輔に叙任された。賤ヶ岳の戦に軍功をあらわし、九州征伐には
石田三成らと兵站奉行を勤め、同十七年越前敦賀の城主に封ぜられて、五万石を領した。翌年の小田
原征伐、それに続く奥羽地方の経略に参加して戦功をたて、平定後出羽地方の検地を担当した。
文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵に際しては、石田三成らとともに船奉行を命ぜられて船舶の調達にあ
たり、さらにその年六月には石田三成・増田長盛ともに在朝鮮部隊督励の奉行として渡海し、翌年明軍
との和平交渉に努めた。
秀吉の死後、吉継は徳川家康に接近し、慶長五年(一六〇〇)七月、家康の会津征伐の軍に従うため敦
賀をたち、途中美濃の垂井から使者を佐和山城の石田三成のもとへ送り、三成の子重家の同道を求めた。
ところが三成は吉継を佐和山城に迎えて、家康討伐の計画を打ち明け吉継の協力を要請した。吉継は家
康を敵として戦うことの得策でないことを説いて、三成に思いとどまるよう切言したが、三成の決心の
固いのを知り、ついに意を決して三成と行動をともにすることにした。
吉継は敦賀に引き返して兵を挙げ、前田利家の軍と戦ってこれを破り、家康が会津征伐の途中から軍を
返して西上したとの報に接すると、敦賀をたって美濃関ヶ原に向かった
吉継はかねて松尾山に陣する小早川秀秋の態度に疑心を抱き、秀秋に備えて松尾山の北、藤川台に陣し
た。九月十五日の戦闘では、一旦は藤堂高虎・京極高知らの東軍の攻撃を却けたが、秀秋の軍が東軍に
内応して吉継の陣に襲いかかったので、吉継は側背を衝かれて苦戦に陥り、奮闘の末に自尽した。時に
四十二歳。



了戒 山城国・鎌倉後期・古刀大業物



鎌倉末期、山城国来一派、了戒の重要刀剣指定作品。 了戒は一説に来国俊の子ともいうが、現存する
年紀に正応(1288年〜)、永仁、嘉元があって、来国俊とほぼ同年代であり、二字国俊と来国俊別人説
を取った場合は二字国俊の子と考えるべきである。
作風は了戒は来国俊と極めて近接したものが多いが、地がねに柾気を交えて白気ごころをおびたり、
直刃の匂口がうるみごころとなるものが多い。
鎌倉中期から南北朝期の山城国に於いて、最も隆盛を極めたのが来一派で、事実上の祖である国行を
始め、国俊、光包、了戒、国光、国次らがその代表工です。
その中にあって了戒は、ただ一人入道銘を名乗る刀工、正嘉元年生まれ、来国俊十七歳の時の子と云
い、十六歳で出家したとも伝えられています。
年紀作に見るその活躍期は、鎌倉末期の正応三年から延慶二年頃まで、名古屋市熱田神宮所蔵、子で
ある了久信との合作太刀や、短刀の名物『秋田了戒』を含め、重要文化財五口、重要美術品三口を数
える名工です。
作風は、父来国俊に極めて近いものがありますが、小板目の肌合いに柾が交じり、白け風の映りが現
れること、直刃調の焼き刃が白く潤み勝ちとなるなどの特徴が見られます。中には地に柾目が強く現
れ、刃にほつれや二重刃が繁く掛かるなど、一見大和物に見える作もあります。

また大業物鍛冶としても名高い了戒ですが、かの有名な剣豪宮本武蔵も、その斬れ味に魅了された一
人、終生手放さなかった愛刀の一つに、了戒を挙げています。
鎌倉末期の来派の代表工による優美で気品高い一振り、立派な外装付き、最上の斬れ味を誇る了戒です。







後は写真と画像を見て判断下さい質問はわかる範囲でお答えしますので、入札前にお願いします。

発送はゆうパックの着払いです。

※注意事項※落札しましたら、登録のある教育委員会に名義変更届を出してください。
よろしくお願いします。




Auction Templates オクのミカタ [ヤフオクの出品テンプレートを簡単作成].