昭和43年　非売品　611ページ

序
一、「黄帝素問」は「黄帝霊枢」と並んで、漢方医学の古典である。内容からいえば、前者はより理論的であり、 東洋医学の考え方を述べた概説として、思想史の上でも高く評価される。「論語」の中に「人にして恒なけれ ばもって巫医となるべからず」という当時のことばが引用されている。巫(みこ)と医とは、このように連用 されることが多い。宋学者の注釈(朱子集注)には、「巫や医は賤役であるが、それでも恒心というものがなく てはならぬ」と説明されている。巫と医とを「役」とみるのは、士大夫が幅をきかせた後世の官僚社会でのこ とで、昔は「巫医」といえば、最高の聖職であった。孔子が引用したことばは、決して「賤役」である巫医を念 頭においたのではなく、人の魂と生命とに接触する聖職、「巫医」というものはつねに張りつめた心 (恒心)を 持つべきだということを述べたのである。清朝の貴族を描いた小説「紅楼夢」を読むと、一族のだれかが病 気になるたびに、巫と医とが招かれて、つつしんでお宣託と処方とを授けられている。士大夫の威張った官僚社 会においても、いったん事が起こったとなると、巫と医は頼みのつなであった。宋学者のように巫と医とを役 と見なすのは儒学者の偏見にすぎない。
治国平天下というスローガンをかかげる儒家思想のもとでは、巫も医もたんなる小技であり、賤役であって、 君子のたずさわることではないと考えられた。中国の古典のうち、いわゆる治道に関する書物には、何百人 という人の校訂や注釈が加えられているのに、「黄帝素問」や「黄帝霊枢」は長年の間捨ておかれて、本文の校 訂も難解の句の注釈も、ほとんど施されていない。このような中国の学者の偏見が、このような事態をもたらし たのである。そのくせ、「難経」や「傷寒論」のようなわりあいに臨床に縁の深い書物には、かなりの注解が加 えられている。実用上の必要のためにそうなったのであって、「黄帝素問」のような、理論に属する書物は、実 用派からもうち捨てられていたのである。

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