昭和61年 184ｐ

序にかえて
舞台の芸能というものは、その瞬間瞬間に消えて行ってしまうものだ。 その上演の場所に、その時間に居合せたものが、共通の体験として、そ の空間・時間を共有することで、はじめて成り立つものである。つまり 演じる側と、観客との相互の力によってはじめて成り立つもので、その 時を過ぎてしまえば、その時そこに参加した各個人の記憶の中にしか、 それは残らないという宿命をもっているわけである。
演じる者にとって舞台は、常に観客の目、観客の心との共同作業によ って、無の空間に、流れて行く時の中に、創り出して行くものだが、そ の一瞬一瞬に消え去ってしまう。文学作品や、絵画や彫刻などのように、 時空を超えて存在するということはあり得ないのである。
ぼくたちの世代の者は、幸いにして昭和の名人たちの舞台を数多くこ の目で拝見する機会を持つことが出来た。 その多くの舞台は、目に耳に はっきりと記憶しているが、ぼくらよりもう少し若い人たちになると、 先代梅若万三郎はもちろんのこと、喜多六平太、野口兼資、桜間弓川、 梅若実、橋岡久太郎、観世華雪といった人たちの舞台でさえ知らない世 代が多くなってきてしまっている。
これらの名人といわれた方々のすぐれた舞台というものを、どのよう にして次の人々に伝えていったものかと考える時、多少の録音や映画や ビデオなどから、その面影を偲ぶしかないのであるが、時には、舞台写 真に映画やビデオ以上にすばらしい作品に出会うことがある。 優れた舞 台写真の場合、そこにとどめられた名人の舞台姿に、それぞれの方々の 舞台にのぞむ姿勢を感じ、舞台のもつ気品、気迫、透明感、重量感とい ったようなものまで伝わってくるようで胸をうたれることがある。
また、ぼくにとっては、じかに拝見したことのない方々の写真から、 たとえば先代の宝生九郎先生の「関寺小町」や「安宅」の写真などから
は、九郎先生の芸に向かわれる、厳しく清澄な姿勢を教えられ、それが野 口兼資先生、近藤乾三先生へと承け継がれていることがはっきり感じら れ、また喜多流の梅津只圓の仕舞の写真から、喜多流の能のあり方を教 えられたという思い出もある。
このように、能の写真というものは、その一瞬をとらえたものとはい え、いや一瞬の演技を定着したものだからこそ、その中から、いろいろ なことが発見され、舞台に立つわれわれにとっても、大変教えられるこ とが多いのである。
能の写真ではないが、舞台を撮ったものとして、ぼくは木村伊兵衛さ んの六代目菊五郎の写真が好きである。あの写真集を見ているだけで、 六代目の舞台の一つ一つが僕の頭の中に鮮烈に生き返ってくる。息をつ めた、集中力のある、六代目の力感に張った舞台が、画面の中からひし ひしと感じられるのである。
さて、堀上さんの写真を見せてもらって大変に面白いと思ったのは、 一つの形がキマル一瞬前を撮られていることが多いことである。それが、 動きがあって、劇的で、僕には大変面白く思えた。これはその舞台全体 の空気が伝わってくるようで、われわれにとっても大変興味があるとこ ろである。それと、写真集には一つ一つの写真に扮装の説明がつくそう であるが、面や装束にも気を使っておられる堀上さんの感性のきいた目 を感じるのである。きっと、たくさん撮られた中から写真を選ばれると きに、ご自分の美の意識の基準があったのだろうと思う。少し流れるよ うな動きの中に、舞台全体と面、装束がキッチリと定着しているところ は、いわゆる写真家の撮った写真とはまた違った面白さがあるのではな いだろうか。
堀上さんは能の研究家であると同時に、プロデューサーとして長年そ の普及、啓蒙という仕事をしてこられている。この写真集は、そうした 活動の延長線上にあるとぼくは理解している。 写真集から能の魅力を探 ることができたら著者の本望だろう。
観世栄夫

表紙小傷、小汚れ。もちろん読む分には問題ありません。

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