ベートーヴェン：ヴァイオリン・ソナタ全集
フリッツ・クライスラー(vn)、フランツ・ルップ(p)

かつてヴァイオリン演奏があらゆる音楽に抜きん出た特別の輝きを放っていた時代がありました。戦前の名ヴァイオリニストに寄せられた大聴衆の熱狂は、現代のクラシック界では想像もつかないものだったようです。
賞賛の対象は、専ら神業的な名技にあることが多かったようですが、あまたいたスターの中でも、「いき」な洒脱さで世の人々を魅了した大家がいました。かのフリッツ・クライスラーその人です。余人をもって代え難い瀟々とした個性は眩いばかりの光を発していました。
生粋のウィーン子として、古きよき時代の楽都の栄華を一身に濃縮した様な天才クライスラーは、音楽の情緒を慈しみ、馥郁たる薫りを附与して豊饒極まりない純美な演奏を生み出しました。楽壇の寵児として、後世まで語り草となる別格の存在でした。
1935年と36年にベルリン、ロンドンでHMVにより録音されたベートーヴェン：「ヴァイオリン・ソナタ全集」は、このクライスラーの纏綿たる演奏様式の粋が詰まった代表的な名盤とされ、録音後七十年を経ようとしている今もなお、世界中の音楽愛好家に夢を与え続けている奇跡的な音盤です。
室内楽でベートーヴェンが見せる顔は、渋面や強面はあまり目立たず、より親密な素顔が出ているといえましょう。青春の息吹を吹き込んだ流麗で颯爽とした清新な情熱は、クライスラーの演奏様式との親和性が強く、まさに自家薬篭中の物といった趣があり、不朽の芸術という名に真に値する数少ない演奏でしょう。
このNAXOS盤CDは、世界中でSP復刻に関する腕の冴えを絶賛されているウォード・マーストンが心血を注いで完成させた見事なものです。香気立ち昇る甘美さが生々しく聴きとれる音質は驚嘆すべき仕上がりで、ヒストリカル録音といえば黴の生えたものと敬遠しているファンにこそまず聴いていただきたいものです。
まさに、「21世紀のクライスラー」と称しても過言ではない、現代の音楽ファン必聴である珠玉の三枚組みといえましょう。